反物語主義

小説の公開を主たる目的としたページです。

読書録:大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件(前編)

 2020年最初の一冊にして、本ブログで紹介する記念すべき初めての一冊は

カーク・ウォレス・ジョンソン 著

矢野真千子 訳

大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件ーなぜ美しい羽は狙われたのか

である。

装丁

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細部までこだわりを感じる美しい装丁

 この本を取り上げるにあたりまず触れねばならぬのは装丁の美しさについてであろう。特徴的な碧色の表紙には繊細な羽毛のスケッチが描かれており、作中にも登場する希少な鳥たちが持つ鮮やかな羽を想起させる。

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帯を取った状態(左)裏表紙(右)

 

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背表紙

題名

 タイトルも素晴らしい。

盗  珍  史  大

難  鳥  博  英

事  標  物  自

件  本  館  然

 ぜひ皆様にも一度声に出して読んでいただきたい。この語感の良さ……。好奇心をそそられる漢字の並び……。本格推理小説さながらにたっぷりとケレン味を利かせた何とも大時代な遊び心のある題だ。これが買わずにいられるだろうか。

 この素敵なタイトルが表紙の真ん中にカッチリと四字四行で収まっている。なんともスヤッとした知的な佇まいである。

手触り

 カバーの手触りにも言及しておきたい。残念ながら私には紙に対する専門知識がないため具体性のある説明が出来ないのだが、このカバーには何らかの特殊な加工がしてあるようで、それは手に取った瞬間にすぐわかった。

 まず、持っている手にすぐに馴染むしっとりとした触り心地。それでいてエンボス加工(?)というのだろうか定かではないが、表面にある細かな凹凸が独特のザラザラ、サラサラとした高級感のある触感を生み出している。

 例えるならば、バイスクル社の紙製トランプの触り心地に似ている。(この例え、伝わるのだろうか……?)

カバーを取ると

 カバーを外してみよう。

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カバーなし表紙(左)カバーなし裏表紙(右)

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カバーなし背表紙

 この黒……。あのカバーからは想像できない突然の黒に驚いてしまった。そして優雅な銀細工がごとき羽の絵がこの黒の上で実に映え、光の下で控えめにきらきらと輝くというカラクリだ。これがまた実に……。実に……。

 左上部にはこの本の原題である“The Feather Thief”の文字が。直訳するとそのまま「羽泥棒」となる。邦題と比べると随分あっさりとしたタイトルだが、このデザインにはかえって相応しいように思われる。

 カバーで覆い隠されているのが勿体ないような仕上がりである。とはいえ、カバーはカバーで魅力的なのでなんとも悩ましい。

出会い

 私がこの本と出会ったのは、たまたま近所の書店に立ち寄った日の事だ。その日はこれといって目当ての本もなく、ただなんとなく面白そうな文庫本の一、二冊でも買おうか買うまいかという、そんな軽い心づもりでの入店であった。

 さて、ぶらぶらと店内を物色していると、棚に平積みされている一冊の本が目についた。今思えば、この時点で私は書店側の仕掛けた罠に見事捕らわれていたと言えよう。

 あまり見かけない、ターコイズブルーの美しい本である。表紙を飾るアートも豪華でありながら主張しすぎず、品がよい。

 近づいてみる。なんとも興味深いタイトルではないか。

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 思わず手に取る。すると例の、ザリッとした魅力的な手触りなのだからたまらない。

 ぜひともこの本を手に入れたい。いや、手に入れねば。そう思う頃には、既に会計を終え、店を出ていた。予算は2000円ほどオーバー。おかげで私は朝食と昼食を抜く羽目になり、この日のエンゲル係数はとんでもないことになった。

 

 巧妙。実に巧妙なのだこの本は。上記でお分かりのように、この本は

表紙→タイトル→手触り→内容

と、流れるように購入へ促してゆく。愛書家の「所有欲」を理解し、的確にそれを刺激してくる。そう、そこそこ値段のするハードカバーの本を衝動買いしてしまったのも決して私の金銭感覚が壊れているからではなく、全て計画された一連の流れが原因なのだ。何と恐ろしい……。

 

 そしてこの「所有欲」こそ、物語の大きなキーワードなのである。

 

次回へ続く

 

「無題」

 前回に引き続き、夏目漱石の「夢十夜」に強く影響を受けている作品。第三夜の雰囲気を意識して書いた。導入などは、完全に本家を踏襲している。たしか去年の秋頃に書いたものだ。

 私が実際に見た夢を題材にした。普段の私は、眠りが深いのかほとんど夢を見ない。時折、積極的に夢を創作に活用しているような作家がいるが心底羨ましい話である。

 

 この日見た夢は記憶に残るほど奇妙なものだった。夢の中で私は何らかの「予感」を得る。するとしばらくして、夢もその「予感」の通りの展開になるのだ。感覚としては「未来予知」をしている状態に近い。

 もっとも、今思えばそれほど不思議な話でもない。夢が睡眠中の脳の動きの副産物ならば、無意識で私が考えた事が夢として直接出力されたとしても別段おかしいことはないだろう。

 ただ、私が「考え」さえしなければ夢の中の少年が死ぬこともなかったのかもしれない、そんなことを思うとなんとも後味が悪い気分になった。

 小説でもその奇妙な感覚を表現したかったが、どうしても説明的になってしまったためカットした。十分に書きたいことが書けず悔いの残った一作である。

 

 冒頭にも書いた「傘を差すか迷うほどの雨」は私のお気に入りのモチーフで、意識していないとすぐに作品内でこの天気にしてしまう。おかげで私の作品は気がつくとどれもこれも灰色のイメージになってしまうのだ。

 表現の幅を広げなければ……。

「虫籠」

 この作品も前回の「彫刻家」同様、大学の文芸会で発表した作品である。お題は「ハッピーエンドにならない小説」だった。

 

 ブログタイトルに「反物語主義」とあるように、ここ最近の私は「ストーリーとの訣別」をテーマに創作を行っている*1ため、私の作品にはこれといった話の筋がないものや明瞭なオチを設けていないものも多い。一応、考え方によってはそれらオチのない作品も「ハッピーエンドではない」と言うことも出来よう。

 しかし、やはり課せられたお題への向き合い方としてはハッピーエンドではないオチを用意しキチンと物語を閉じたほうが適当だろうと思ったので、今回は比較的にストーリーがしっかり通った作品になった。

 

 私には、短編小説を書く際に常に意識し手本としている作品がある。夏目漱石の「夢十夜」である。特に第七夜、船の話の結末部分は今まで読んできた作品のなかでも際立って印象深い。ぽん、と軽く放るような、それでいて裏切られたような無力感を感じさせる漱石のオチは、私にとって一つの理想形だ。

 この作品も、「夢十夜」から明確な影響を受けている。作風や色合いは、第一夜に限りなく近いと思う。

 

 文芸会のメンバーにも読んでもらったが、評価はなんともぱっとしない。決して失敗作というわけではないようだが……。私自身はそれなりにうまくまとまった気でいたが、やはりこれと言って攻めた部分がない冒険心に欠いた作品だという点は否めないだろう。(その反動で書き上げた実験作が前回の「彫刻家」である)

*1:このテーマについての説明は長くなるため今回は省略する。後日別途で独立した記事を執筆するかもしれないし、しないかもしれない。

「彫刻家」

 大学の文芸会にて「夜景」というお題で書いた作品。ストーリーを極力排する事に努めた。近い時期に書いた別作品から、ひょっとすると自分の文体には暴力描写が似合うのではないか、という思いつきを得たため実験的に試みた作品でもある。

 周囲の人々にも読んでもらったが、内容が内容なだけに合う合わないが出るようだ。まあ……当然と言えば当然か。

「女を磨くと大理石の像になる」という着想だけで、あとはほとんど即興的に書き上げた作品であるが、途中で筆が止まることはほとんどなく、スムーズに完成させることが出来た。珍しいこともあるものだ。書きやすい、ということは向いている、ということだろうか?ともかく、この方向性は今後も取り組んでみることとしよう。

 

 作中に登場する機械音は部屋の静けさを際立たせるために描写したのだが、書き上げてから夢野久作の「ドグラマグラ」と同じではないか!と気が付く。おどろおどろしい雰囲気を出そうと一生懸命になるうちにいつの間にか脳の片隅から引っ張り出していたらしい。これだから無意識は困る……。

 修正しようか迷ったが、今さら手直しするのも億劫だったのでやめてしまった。

経緯

 文学はチラシの裏に書き殴って机の引き出しに放り込んでおけばそれだけで作品として成立している、というのは私が常日頃から主張している持論である。

 最近私が好んで読んでいるポルトガルの作家フェルナンド・ペソアは、生前は詩集を一冊出版したのみの無名の人物だったが、書き残した大量の原稿が死後にトランクから発見され脚光を浴びたらしい。何とも渋いエピソードではないか。

 映画や演劇とは異なり、特に客を前提としなくても作品が存在できるというのは文学の持つ強みである。

  そういったわけで、私も長らく完成した作品をどこに発表するでもなく机の引き出しに仕舞い込んでいた。ところが最近になっていよいよ机の引き出しという引き出し、自室の床、果てはパソコンのデスクトップまで小説の書き損じという名のゴミやメモがあふれてしまい、肝心の作品まで原稿用紙や電子データのまま散り散りばらばらとなる事態に陥ってしまった。

 私はよく、自分が過去に書いた文を読み返す。それなりに気に入っている作品を読んで「なんだ、案外僕もやるじゃないの」と悦に入るためであったり、あるいはあえて失敗作を読んで眠れぬほどに深く恥じ入り七転八倒するためであったりと理由は様々であるが、とにかく読む。時には人に送ったメールやLINEを読み、ノートや下書き、メモを読み、自分が呟いたツイートを遡って読んだりする。

 そんな私にとって即座に自作の小説が取り出せない環境というのは大きなストレスだったが、正月ということで一念発起し整理と記録の意味もかねてインターネット上に場を用意することにした。個人的に纏めておこうかとも考えたが、せっかくだから公開しておけば、誰か物好きが読んでくれるかもしれない。何か新しいことを始めるにも丁度良い頃合いだと思い、このような形式をとった。餌もつけずに針を垂らしている釣り人のような気分である。